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「パラアルペンスキー」髙橋幸平ってどういう人間?一から書いてみた!

はじめに

はじめまして。7月にコムニコに入社した髙橋幸平です。
私は、現在パラアルペンスキーという競技に取り組んでおり、2026年に開催される「ミラノ・コルティナダンペッツォパラリンピック」の出場を目指し、トレーニングに励んでおります。

SNSマーケティング事業を行うコムニコには、「競技を通して多くの方々に笑顔を届けたい。」という思いから入社しました。SNSを一から学ぶことで、発信力のある選手を目指します。

その一環で、コムニコや親会社のラバブルマーケティンググループのnoteを通して、パラリンピック出場に向けた様子などを定期的に発信していきたいと思います!

今回は少しだけ、「私」という人間について語らせていただければと思っています。


プロフィール

髙橋幸平(2000年10月18日生まれ)
パラアルペンスキー競技(平昌2018パラリンピック、北京2022パラリンピック出場)
3歳からスキーをはじめ、高校1年生からパラの世界へ。

主な実績

2020年 イタリアワールドカップ 回転競技 4位
2022年 北京パラリンピック   回転競技 12位
2023年 世界選手権 スペイン  回転競技 14位

生い立ち

私は生まれつき脳性麻痺という病気をもって、岩手県盛岡市の病院で生まれました。体重は3922g。特段小さいわけではなく、むしろ大きかったので、誰もこのときは私の身体に障害があるなど思ってもいませんでした。

そしてようやくハイハイができるようになった生後9ヵ月ごろ、母が異変に気づきました。いつものように私のお世話をしていた時のことです。右手の方だけがくずれ落ちるように転倒することが何度か続いたそうです。

私にはふたつ上の兄がおり、兄を育てているときより違和感があったようで、母は不安に思い何件か病院をまわりました。しかし、どこの病院でも原因はわかりませんでした。数ヶ月探したあとに受診した医師が脳の異常ではないかと思い、脳の検査をしたところ、私の病名「脳性麻痺」が判明したのです。

脳性麻痺は母親のお腹の中にいるころから産まれて間もない時期に受けた脳神経細胞の損傷によって、運動機能の障害(運動障害)などを起こすと言われています。原因ははっきりわかりませんが、私の場合もおそらく、お腹の中にいるころに脳神経細胞の損傷が起きたのだろうと、医師から言われました。

幼少期

水泳、野球、ハンドボールから学んだこと

母親の意向もあり、小さいころから多くのスポーツと触れ合ってきました。水泳、野球、ハンドボールなどです。水泳においては、右手のリハビリを兼ねて、2歳から小学校6年生まで続けました。そのおかげで苦労なく、水泳の授業をこなすことができ、バタフライまでできるようになりました。水泳を勧めてくれた両親に感謝しています。

野球では地元の草野球チームに所属し、4番バッター、キャッチャーで、キャプテンを務めていました。ここでも周りの健常児と何ら遜色なく、打って、投げることができ、チームで助け合うことの大切さを学びました。

中学生になると、兄の影響でハンドボールをやるようになりました。ハンドボールはその名の通り、手を使って行うスポーツのため、周囲の人からすると、右手に障害を持った私にとって無理なスポーツだと思うのが普通でしょう。父や母もこのときに限っては猛反対。激しい接触もあるため、障害を持った私の身体を考えると、両親が止めるのも当然のことです。

しかし私はハンドボールをやりたい思いが強かったため、反対を押し切り入部したのでした。入部してからというもの、つらい日々が続きました。片手でパスを取ることができない。走るのも脚力がないため一番最後でした。途中でやめたいと思ったこともありましたが、これは、自分で選んだ道。何がなんでも途中で投げ出したくないという思いがあり、3年間続けることができました。片手で取れないパスはバウンドボールで取るなど、工夫次第で健常者と同じプレーができることをハンドボールから学びました。

パラアルペンスキーヤーになるまで

もうひとつ、幼少期から取り組み続けていた競技がスキーです。3歳から両親に連れられ、地元のスキー場に通い、スキーの楽しさを学びました。
スキーはハンドボールや野球とは違い、自然を相手にするスポーツのため、また違った喜びを味わうことができます。例えば、自分で決めたコースを自由に滑り、決して、同じターンはありません。この点に魅力を感じて、気づいた時には切っても切り離せない関係になっていたのでした。

パラアルペンスキープレーヤーを目指すきっかけは、2014年に遡ります。当時、中学3年生だった私は地元のパラスキー協会に繋げていただき、長野県で開催されていた、2014ジャパンパラアルペンスキー競技大会の前走者(最初にコースの下見をする役)をやらせていただくことになりました。そこで、衝撃的な出来事を目にするのです。私が滑り終わり、次々と滑り降りてくる選手の中に、片足で鋭いターンをする、当時日本代表だった三澤拓選手がいたのです。こんなにキレのあるターンを片足一本でやってのける、そんな姿に憧れを持ち、私もいつかこの人のように滑りたいという純粋な気持ちが生まれ、パラアルペンスキー界へのめりこんでいったのです。

2018年平昌パラリンピックに初出場

高校1年生からジャパンパラアルペンスキーチームの日本代表メンバーの一員として、合宿や大会に参加させていただいておりました。その中でスキー技術を磨き、パラリンピックとはどういったものなのか、先輩方からスポンジのように吸収しました。時には好きなスキーのはずがうまく滑れず、つまらないと思った時期もありました。

時は過ぎ、高校2年生。平昌パラリンピックが控えるこの年は、選手、スタッフなどすべての人が良い緊張感に包まれていました。これがメダルを狙う集団なのだと改めて実感しました。パラリンピック出場には、いくつかの選考大会があり、そこで成績を出した選手が順に選考されるというのが基本です。私もその選考に選ばれるべく、精一杯の滑りをしましたが、レベルの高さに圧倒されました。決して納得がいく成績ではありませんでしたが、無事に内定をいただくことができました。

平昌パラリンピックは韓国での大会ということもあり、家族、学校の先生、地元の方々、大勢の応援団が現地まで来てくれて、声援をくれました。こんなに多くの人が来てくれたことは今でも、脳裏に焼き付いています。感謝とともに、スキーをやってきて良かったなと心の底から思うことができました。結果は「大回転」と呼ばれている競技で21位、「回転」と呼ばれている競技で17位と、2つの競技で出場人数の半分あたりの結果を収めることができました。次のパラリンピックでは、さらなる高みを目指すと心に誓ったのです。

2度目の挑戦

北京パラリンピック内定に向けた挑戦は、コロナウイルスとの戦いといっても過言ではありませんでした。大会の開催がキャンセルになったり、日本チームは出場できないなどと渡航前に運営側から連絡があったり、岩手から7時間かけて成田空港に到着したのにとんぼ帰りをせざるを得ないということもありましたが、心を落ち着かせて、自分がやるべきことに集中しました。
北京パラリンピックの選考時期をむかえたとき、私の内定はありがたいことに早い段階で確定しました。パラリンピックは2度目の出場ということもあり、かなり気持ちの面では前のめりになっていました。私が出場する「スタンディングクラス(立って滑るクラス)」からは、長い間メダル獲得者が出ていないため、この空気を打破するべく強い気持ちで臨みました。

平昌の時とは別人になったかのような気持ちで、自信しかありませんでした。「スタンディングクラス」は日本人が勝つことが至難の技と言われていますが、今まで積み上げてきたことを発揮するだけだと張り切ってスタートしました。

結果は40数人中12番目。悔しさが残ります。結果を見返すと、あの人には勝てた、この人には勝てたという感情が出てきてしまうものです。しかし、命をかけて競技を行っているのはすべての選手が一緒で、目標とする大会にすべての面で照準を合わせることが足りていなかったのだと実感させられた大会となりました。

最後に

私は、多くの方々に支えてもらいながら、ここまで歩んできました。3年後の2026年ミラノ・コルティナダンペッツォパラリンピックに向けて、今度こそはメダルを獲得したい。この目標を達成するために、あらゆるトレーニングを行い準備して参ります。

日体大スキー部時のトレーニング集合写真

パラリンピックを通して多くの方々に、笑顔を共有したい。この思いから、私はこの身体が動かなくなるまで進み続けますので応援よろしくお願いします!

また、Instagramでも情報発信して参りますので、ぜひご覧ください!
最後まで読んでいただきありがとうございました。

髙橋幸平

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最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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